人魚姫のレインとシェイド
vol.5
5章「零れ落ちる想い」
レインはシェイドに手をひかれ、2人だけの密やかなダンスに、うっとりとしていた。
頭上で光る月以外は、何も見ていない。
ここでなら、この想いもきっと隠さなくていい・・・。
そう思った時、1つの声が響いて、2人の世界に割り込んだ。
「シェイド、どこにいるんだい!?
王様がお呼びだよ!!」
聞き覚えのある、柔らかな声。
――ブライト様だわ。
庭木の向こうからの声に、姿は見えなくても、その主は知れた。
声が聞こえた瞬間、シェイドもレインも弾かれたように、互いから身を離した。
それが、いかにも許されない事をしていた証拠のようで、瞬間、レインは切なくなった。
小さな声で「悪い」とレインに囁いて、シェイドは声のした方に向かって歩き出した。
2人の世界から元の世界に戻ってしまう・・・、そう感じた。
「すぐにそっちに行く、そこで待ってろ!!」
少し声を荒立たせて、数歩行った所で、シェイドはレインを振り返った。
瞳が揺れて、唇が物言いたげに僅かに開く。
レインは、シェイドから目を逸らせるはずも無く、ただ見返した。
それは、おそらくは一瞬のこと。
やがてシェイドは何かを飲み込むように口を引き締めると、レインに背を向け、庭木の向こうに姿を消した。
引き止める事など出来るはずもない。
目は誰もいなくなった空間を見つめ、シェイドとブライトの会話だけが、耳に響く。
「・・・全く、今日の主役が会場から抜け出さないでくれよ。
大体、シェイドは君の誕生日の時だって・・・」
「分かってる!悪かった!!
で?父上は一体、何の用なんだ?」
「それが・・・」
「・・・・・・・」
少しづつ遠くなる声を聞きながら、レインはそこから動けなかった。
いや、ブライトの前に姿を現すわけにもいかなかったのも事実だが、それ以上に、この場所から動きたくないと思ったのだ。
最終的には邪魔が入ってしまったが、しばしの間、2人きりですごした場所。
先程までの幸せな気持ちに、もう少しひたっていたかった。
ガサリ。
しばらく、ぼんやりとしていたレインの背後で、木の枝を掻き分ける音がした。
振り返ると、シェイドと一緒に広間に戻ったはずのブライトがいた。
どうしたのかしら・・・?
首をひねってブライトを見ると、その瞳にいつもの優しさが無いのに気付いて、ハッとする。
瞳には、微かにレインを諌めるような光が浮かんでいた。
1歩、歩み寄るブライトにレインは思わず後ずさる。
ともすれば逃げ出してしまいそうになるレインを押し留めるようにブライトが声を発した。
「・・・これ以上、シェイドに関わらないでくれないか?」
どこかで、その言葉が言われるのではないかと、予測していた気がする。
これは、一時の幸せに過ぎないのだと、これ以上を求めてはいけないと。
耳に微かにダンスパーティーの音楽が聞こえる。
知っているのだ、あの世界に自分が入っていけるわけなどないと。
分かってはいても、ブライトの言葉に、すぐには頷く事も出来なかった。
身動きも出来ず、ただブライトの顔を見つめるレインに、ブライトは更に言葉を重ねる。
「シェイドは、ファインと婚約するんだ。
ずっと、子供の頃から決まってるんだ。
ファインだって・・・、シェイドが好きなんだから。」
自分で発する言葉に、次第にうつむきがちになっていくブライトは、急にバッと顔を振り上げる。
「ファインの、ファインの幸せを邪魔しないでくれ!!
ファインには、いつだって笑っていて欲しいんだ。
それを壊す人は、誰であろうと・・・」
レインは、ブライトの固く握られた手が震えているのに気付いた。
「誰であろうと、僕が、許さない」
搾り出された声も、その手と同様に震えていた。
けれど、それが怒りによる物ではないとレインは気付いていた。
溢れ来る想いを押し殺して、それでも、こんなに優しい言葉が言えるなんて、
――そんなにも、ブライトはファインの事が好きなのだ。
『君もシェイドの事を本当に好きなら、分かってくれ』
最後にブライトが言った言葉が、レインの胸に棘のように残った。
『本当に好きなら』
その後、仕事に戻ったレインは、ずっと上の空で、全く使い物にならなかった。
パーティーの後片付けも終わって、使用人たちも各自の部屋に戻った頃、レインは海に来ていた。
人間になってからの間、未練が残るからと、海には近づきもしなかったレインだったが、今日は、今日だけは、どうしても海のそばにいたかった。
頭の中で、ブライトの言葉がこだまする。
『本当に好きなら分かってくれ』
分かってあげたかった。
でも、ブライトとレインでは決定的に事情が違った。
レインは、シェイドが別の誰かと結ばれれば、海の泡となって消えてしまうのだ。
海の中の世界で、誰よりも美しいと褒めそやされた声を失い、尾びれを失い、歩く度に襲う激痛に耐えてきた。
それすら、シェイドの顔を見て、そばにいて、たまに声をかけられて、それだけで癒された。
レインは、夜空を見上げる。
つい数刻前、レインとシェイドを照らしていた月が相変わらず、細く輝いていた。
この月も、もう見れなくなる。
月だけじゃない。
この空気を吸うことも、花の香りを嗅ぐことも、笑うことも、泣くことも、怒ることも出来ない。
人間になって、地上の世界で過ごした時間。
メイド仲間の笑顔、仕事が終わって飛び込むベッドの感触、城に迷い込んできて皆で飼っていた猫、全て、触れてきた、感じてきた全てが、愛おしくよみがえる。
この想いを捨てるのは、全てが消える事。
手放したくなかった。
恋を失うのも身を切るように辛かったが、それでも、下唇かんで思い切る事もできるだろう。
でも、自分自身が消えては、それすら出来ない。
不思議なのは、こんな状況なのにも関わらず、レインがファインの事を憎めない事だった。
その存在の為に、自分は消えてしまうのに。
レインの頭の中に浮かぶのは、あの赤い髪の少女の汚れない笑顔。
ブライトやシェイドだけでなく、レインもまた、あの少女のことが好きなのだ。
『ねぇ、レイン?
私たちの名前って、まるで姉妹みたいだね!』
初めて会ったとき、そう言ってニッコリと笑ったファインを思い出す。
本当に、好きなら・・・・・・。
レインは、ぽろぽろと涙をこぼした。
涙が描く波紋の中、何か光る影が海の底から上がってきた。
やがて浮かび上がってきたのは、久方ぶりに見る姉たちの姿だった。
懐かしい姿に、喜ぶよりも、海での生活が恋しくなって、レインは言葉も出ないまま、泣き続けた。
「ねぇ、レイン?
私たち、貴女を迎えに来たのよ。
一緒に海に帰りましょう?」
・・・何を言ってるの?
そんなの、無理に決まってる。
私は、もう消えるしかない、海になんて帰りたくても帰れない・・・!!
レインは俯いて下唇をかんだ。
パシャンと水音をさせて、姉の1人がレインのすぐそばまで泳ぐ。
そして、レインの頬を伝う涙をぬぐい、元気付けるように微笑んだ。
「レイン、1つだけ貴女が消えない方法を見つけたの。
これを、受け取って。」
姉の手のひらに置かれていたのは、1本のナイフ。
これは、何・・・?
どういう事?
「これは、私の髪と引き換えに魔女からもらったナイフよ。
これで、王子様の心臓を貫けば、その血で貴女は人魚に戻れる。
あの、海の世界に帰れるのよ」
姉の瞳は、不思議なほどに深い青で、深海の色を思い起こさせる。
その瞳に吸い込まれるようになって、頭がクラリと揺れる。
瞬間、レインの脳裏に自分の誕生日を祝福してくれた珊瑚たちの姿が浮かんだ。