人魚姫のレインとシェイド Vol.6

 



最終章「人魚の恋」


ふらつく足で夢遊病者のように、レインは城の廊下を歩く。

あの姉の瞳を見た時から、彼女自身の思考は止まり、浮かぶのは海の世界のことばかりになっていた。

今、手にしているナイフで何をするのか、それすらも理解できていない。

それでも、足は導かれるように1つの部屋へと向かう。

この国の王子、シェイドの部屋に。

 

用心深くノブを握り、音をさせないようにして扉をあける。

夜の闇の中、窓からさす微かな月明かりが、眠るシェイドの姿を浮かび上がらせていた。

突き動かされるようにレインは、その傍によるとナイフを振り上げた。

『王子様の心臓を貫けば、海の世界に帰れるのよ』

姉の言葉が、ただ頭の中で響く。

命令通りに動く、機械仕掛けの人形のように、レインは無表情にナイフを振り下ろした。

  

その瞬間、眼下のシェイドが眠りの中で微かな声を出した。

それは、息遣いのようなもので、言葉として意味を成してはいなかった。

だが、シェイドの声を聞いた瞬間、レインの押さえ込まれていた思考がよみがえった。

――シェイド、様?

 

え?私、どうしてシェイド様の部屋なんかに・・・。

その時、レインは自分の手にナイフが握られているのに、ようやく気づいた。

そして、その切っ先がシェイドに向かっていることに。

っ!!これは、どういう事!?

ガクガクとした震えが手足から全身へと伝わる。

私は、シェイド様を殺そうとした・・・!?

自分が、生きて海の世界に帰る為に。 

 

体の震えが止まらない。

自分が消えるかもしれないと思った時は、ただ悲しみに泣いていたレインだったが、今は、体の奥底から突き上げてくる恐怖に震えていた。

・・・この人を永遠に失う所だったなんて。

それでは、生きていても死んでいるのと同じだ。

レインは震える足を引きずるようにして、1歩後ろに下がった。

その拍子に手にしていたナイフが床に滑り落ち、チャリーン、と高い金属音が部屋に響いた。

 

その音に、眠っていたシェイドが弾かれたように起き上がる。

そして、その瞳に映ったのは怯えた表情のレインと、床に落ちたナイフ。

「・・・レイン?

そのナイフは・・・?

・・・・・どうして、」

シェイドの言葉を皆まで聞かずにレインはナイフを掴むと、逃げるように部屋から飛び出した。

「レイン!!」

逃げる背中にシェイドが叫んだが、レインは止まらなかった。

自分がシェイドを殺そうとしていた事を知られたのだ。

・・・止まれるはずがなかった。

 

 

激しく走り続けた為に、胸が苦しい。

だが、そんなもの、今のレインの悲しみに比べたら軽いものだった。

全速力で走って、呼吸すら苦しいのに、レインは足を緩めなかった。

もうシェイド様のそばにはいられない・・・。

知らず知らずのうちに涙が頬を伝う。

走って走って、辿り着いたのは城の裏手にある崖だった。

 

崖の先端に立つと、下から吹き上げる海風がレインのスカートをバタバタとはためかせる。

巻き上げられる髪を押さえながら、レインは崖の下に広がる海を見つめた。

あの奥には、懐かしい海の世界がある。

けれど、このまま飛び込んだところで、あの世界に帰れるわけではないとレインも知っていた。

シェイドを刺せなかったことで、レインは人魚には戻れなかった。

このまま、飛び込めば、死ぬだけだ。

いや、死ぬことすら出来ない。

人間としての魂を持たないレインは、ただ、消えるのだ。

それを思うと、やはり少し寂しくはなった。

だが、愛する人の命を奪って生きるよりはマシだ。

レインは、手にしていたナイフを海に投げ捨てると、静かに瞼を閉じた。

1歩、また1歩と足を踏み出す。

崖の先端までは、おそらく、あと半歩。

・・・そして、最後の1歩。

 

波の音が激しく、レインの耳をとらえる。

あぁ、これで何もかも終わりだ。

――そう思った瞬間、レインの体は強い力によって後ろに引き戻された。

 

驚いて目を開けると、足元にあった石が崖を転がって、海へと落ちていくのが見えた。

自分もああなっていたのかと思うと、瞬間ゾクリとする。

だが、そんな恐怖すら忘れさせるように、レインの体は心地よい温もりに包まれていた。

両腕を抱きしめる強い力。

耳元にかかる熱い息。

だが、その温もりの正体を知っているレインは、なかなか振り返ることが出来なかった。

求めてはいけない。

縋ってはいけない。

シェイド王子、貴方のそばに、これ以上いてはいけないのに。

レインは苦しげに身をよじると、どうにかしてシェイドの腕から抜け出そうとした。

だが、シェイドは余計に力を込めて叫ぶ。

「やめろ!!死んでどうする気だ!?」

どうする訳でもない、ただそうするしかないのだ。

 

とめどない涙で頬を濡らしながら、どうしてもレインはシェイドの方を見ようとしない。

「レイン!!!」

シェイドはレインの腕を引き、強引に自分の方にその顔を向かせた。

涙でグシャグシャになったレインの顔、その悲しげな瞳を見て、シェイドはギュッと自分の胸にレインの顔を押し付けるようにして、強く抱きしめた。

 

「・・・レイン、オレが憎いか?」

レインは静かに首を振る。

「オレの事が、嫌いか?」

もう1度、首を振る、今度は少し強めに。

「だったら、どうしてオレの前から居なくなろうする?」

・・・。

顔をあげることも、首を振ることもしなかったレインを、シェイドはそっと抱きしめなおす。

「レイン、お前がオレを殺そうとしたって、さっきのお前の顔を見れば、それがお前の意思じゃないって分かる。

だから、それについては何も問わない。

だが、お前が死のうとするなら、話は別だ。

・・・レイン、オレのそばから離れないでくれ」

 

懇願するような最後の言葉に、レインは思わず顔を上げる。

見上げれば間近にシェイドの顔。

いつもは、なかなか表情を崩さないその顔が、今は辛そうに歪められている。

シェイドが、そっとレインの頬に手をやる。

「レイン、最初はただ明るくて、よく笑う子だと思った。

そのうち口が利けないことだとか、足の怪我だとか、そんなのに負けないでいるお前を知って、目で追うようになった」

シェイドの指が、レインの頬を遠慮がちになぜる。

レインは、ただシェイドの目を見つめ返していた。

「あの夜、オレの手のひらの下で、幸せそうに目を閉じるお前を見て、

・・・胸が、苦しくなった。

あの時からずっと、オレはお前のことばかり考えている」

レインの胸の鼓動が次第に速くなる。

後ろで鳴っているはずの波音も耳に入らない。

ただ、シェイドの声だけに聞き入りながら、その顔を見つめた。

 

すると、シェイドはふっと微笑んで言った。

「ファインに言われたよ。

それは恋っていう気持ちだって。

ファインがブライトに対して抱いているのと、同じ気持ちだってな」

 

レインは信じられない思いで目を見開いた。

だが、シェイドの顔には冗談を言っている様子など欠片も無かった。

じわじわと胸の奥から、熱いものが吹き上がってくる。

恋…?

私が、じゃなくて、私に、シェイド様が?

都合の良い夢なんじゃないか。

そんな事すら思った。

 
 
シェイドは目を白黒させているレインを見て苦笑した。

…信じられない、と思ってる顔だな。

 
 

もう一言、はっきりした言葉で。

もしかしたら違うんじゃないかとか、まさかそんな事、とか思えないように。

お前に直接響くように伝えよう。

 
 

「レイン、お前が好きなんだ」
 
   

途端にレインは、火山が噴火するみたいに、一気に真っ赤になった。

口があわあわと動いている。

 
 
気持ちは伝わったみたいだが…、まったく忙しいヤツだな。

シェイドは、レインを愛しく見つめ、そっとレインの青い髪をなでた。

「レイン、さっきの質問の続きをしていいか?

…オレを嫌いでないなら、

少しでもオレの事、好きか?」
  
   

その真剣な声音に、レインはまだ少し赤みを頬に残したまま、シェイドの瞳を真っ直ぐ見返した。

自然に瞳が潤むのを感じる。

押し殺そうとして、自分の存在すらこの世から消してしまおうとすら思ったのに。

今、こんなに素直に自分の想いを、この人に伝えられる。

「…レイン?」

促すようにシェイドが名を呼ぶ。

彼にしては、ひどく甘い声。

レインは、花のような笑みを浮かべると、こくりと頷いて、シェイドの首に縋るようにして抱きついた。

 

柔らかく腕を回してくるレインを、シェイドが優しく抱きしめる。

2人でいるのが、こんなにも自分を安心させる事に、微かな驚きを覚えながら。

間近に、愛しい緑の目。

指を、まだ涙の痕の残る目の際から、頬を滑らせて、唇へと触れる。

互いの視線が交わる。

 

シェイドの熱い息を感じて、レインは鼓動を抑え切れなかった。

――まるで、体中が心臓になったみたい。

触れ合う手と手や、何よりも自分を見つめるシェイドの目が熱くて、頭の奥がクラリと揺れる。

レインの視界がシェイドだけになる。

それと同時に、唇が重なった。

 

・・・唇が甘く痺れる。

シェイドの息がレインの息と溶け合い、レインの中に落ちていく。

 

名残惜しげに互いの唇が離れ、レインはゆっくりと閉じていた瞼を開けた。

目の前には、誰より愛しい人――。

「・・・シェイド様」

 

レインとシェイドは互いに目を見開いた。

「・・・!

レイン、声・・・!!」

「え、あ、私・・・?」

シェイドだけで無く、声を発した当の本人が1番驚いていた。

人間になる薬を飲んだ時、魔女に奪われた声が戻ってきていたのだ。

「・・・どうして・・・?」

もしかしたら、昔聞いた御伽話のように、王子様のキスのお陰・・・?

レインが頭をひねっているとシェイドが、顔を覗き込んできた。

 

「なぁレイン、もう1度、名前呼んでくれないか?」

「・・・え?」

「お前の声で、呼んでほしい」

レインは少し恥ずかしげに俯いて小さな声で言った。

「・・・シェイド様」

「もう1度」

「シェイド様」

「・・・もう1度だけ、お願いだ」

「・・・シェイド様!!」

レインは、たまらずシェイドに抱きついた。

シェイドはレインの髪をなでながら、低く優しい声で囁いた。

「何度でも、呼んでほしい。

これから、ずっと・・・。

もうオレから離れようなんて、思わないでくれ」

レインはシェイドに抱きついたまま、小さく頷いた。

 

「それにしても、もったいない事をしたな・・・」

「え?」

突然、何を言い出したんだろう、とシェイドの腕の中で、レインは顔を上げた。

「いや、明日のパーティーがな。

オレとファインは、それぞれ別の人のことが好きなんだから、建前だけの婚約なんか止めようって事にしたんだ。

その代わり、明日はファインとブライトの婚約発表にしようと思って父上や母上に相談の上で準備してたんだ。

まぁ、ブライトはまだ知らないがな」

「・・・え、主役なのに?」

「今頃、ファインが一世一代の告白に言ってるだろうさ。

ギリギリまで勇気が出ない、とか言ってたからな。

あいつが、ファインの告白断るわけないのにな」

シェイドは小さく苦笑した。

 

レインは、ブライトのあの夜の苦しそうな顔を思い出していた。

自分の想いを押し込めてまで、ファインの幸せを願っていた人。

明日のパーティーでは、きっと彼の心の底からの笑顔が見られるだろう。

その光景を想像して、レインは微笑んだ。

そして、ふと気づく。

「・・・でも、何がもったいないんですか?」

「ん?いや・・・、まさかオレの想いが叶うなんて思ってなかったから、パーティーあいつらに譲ったんだが。

こんな事なら、オレとレインの婚約発表パーティーにしたら良かったと思ってな」

「・・・えぇっ!?」

「いや、いっそのこと合同っていう手も・・・、

どうしたんだ?レイン」

レインは不安げな顔で俯いた。

「だって・・・、私とシェイド様が婚約なんて・・・」

「・・・イヤか?」

「私がイヤとかじゃなくて、王子様とメイドが婚約なんて・・・、そんな・・・」

 

そこまで言ったところで、シェイドがレインの髪をクシャッとした。

「・・・バカ。

オレはメイドのお前を好きになったんだ。

そんな事、気にしてどうする。

万が一、文句を言うやつがいたら、オレがレインの素晴らしさを演説してやる」

「え、演説・・・!?」

楽しそうに、そして頼もしげにシェイドが笑う。

「大丈夫、レインなら、な」

その顔に不思議と勇気付けられて、レインはようやく微笑んだ。

 

シェイドが、レインに回していた手をそっと外す。

「まだ、正式なプロポーズをしていなかったな」

シェイドは、すっと地面に片膝をつき、右手を自分の心臓の上にそっと当てる。

その真っ直ぐな視線の先には、レイン。

 

「オレと、結婚してくれ」

 

レインの心臓が震える。

この数刻の間に移り変わる事態に正直、頭が混乱しそうになっていた。

だが、それ以上にどんどんシェイドを好きな気持ちが増えてくる自分にも驚いていた。

目の前には、シェイド。

この人と、一緒にいたい。

素直にそう思った。

 

レインは、両膝を地面につくと、シェイドの右手を両手で抱きしめた。

そして、澄んだ小さな声で答えた。

「・・・はい」

 

誕生したばかりの1組の恋人たちの上には、月が微笑むように細く光っていた。

 

 

エピローグ:『そして、いつまでも。』

 

海に白い大きな船が浮かんでいる。

レインが初めてシェイドに会った時の船だ。

あの時は、夜の中に浮かび上がって神秘的にすら見えたが、今日は陽光の下、まぶしく輝いている。

華やかな音楽と花々の香り、人々のざわめき、船は幸せな空気に包まれている。

「あ、出てきたわ!」

人々が誓いを交わし終え、式場から出てくる2人を見て声を上げた。

「おめでとう、シェイド王子!」

「きれいよ、レイン様〜v」

国の正装の黒とプラチナの衣装のシェイドと、ビスチェスタイルに豪華なフリルの真っ白なウェディングドレスのレインは、対照的でいて、とても似合っていた。

シェイドとレインは互いを見つめあい、微笑んだ。

ここまで来るには、意外と大変だった。

だが、レインが海の国の姫君だったことと、海の国の王が財宝を結納として、シェイドの父に送ったおかげで、レインの心配したような反対はなかった。

何より、レインの愛らしさと、その優しい性格が国民をはじめ、皆をひきつけて離さなかったのだ。

 

人魚たちの歌声が聞こえる。

レインが元人魚だったことが判明してから、今まで全く交流の無かった(というよりも存在が知られてなかった)海の国と地上の国との間は親密なものになっていた。

今日も、レインの姉たちをはじめ、人魚たちがお祝いに駆けつけていた。

シェイドは嬉しそうに手を振るレインを見つめる。

「なぁ、レイン・・・」

「ん?なぁに?」

「昔、オレが・・・。

いや、いい。」

「何よ、それ〜!変なの!!」

ぷぅっと頬を膨らませるレインを見て苦笑する。

聞かなくても、いい事だ。

『昔、オレが海に投げ出された時、助けてくれたのは、お前じゃないのか?』

・・・たとえ、そうであっても、無くても、大切なのは、今ここに、こうしていること。

レイン、お前のそばにいること。

「・・・レイン」

「今度は何よ〜?」

 

「愛してる」

レインは、たじろいだようにして顔を赤らめた。

「も、もぅっ!そ、そんなこと、言わなくっても分かってるわよ!!」

照れた顔を隠すように背を向けるレインを後ろから抱きしめる。

この愛しい存在に、出会えたことに感謝しながら。

 




fin.

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このSSは夜美さまの「パラレルで『人魚姫』のシェレイを」というリクから。
アイディアをひねっているうちに、どんどん話が膨らんでいって、こんなに長くなってしまいました。
個人的にはシェイドがレインを部屋まで送っていくシーンが、お気に入りでした。
夜美さま、ありがとうございました。