square garden 最終章:『賢者のクリスマス』
冬の朝は、冷たく明瞭な空気に支配される。
カーテンから透ける朝の光が、病室を明るく染めていく。
まるで黄色の絵の具を一滴たらしたようだ。
レインはその光景を、この朝の空気にも似た冴えた瞳で見つめていた。
それは、昨夜一睡もせずにいたとは思えないほど、涼やかだった。
一晩中、レインはずっと考えていた。
ファインのこと、ブライトのこと、自分のこと。
昨日は『病気かもしれない』というファインに、それはブライトへの恋心なのだとも言えずに帰した。
『詳しくはまたそのうちに説明するけど、病気じゃないわよ』とだけ言って。
正直、なんと言ったらいいのか分からずに、説明を先延ばしにしただけだった。
ファインが、ブライトを、今は自分の恋人であるブライトに、恋しているなんて。
いったい、どう説明をつけろというのだろう。
…自分の気持ちのことすら、上手く説明ができないのに。
けれど、大切なことだけは知っている。
昨日、アルテッサが言っていた言葉。
『そのままの自分でいられること』
それだけが恋しあうことの全てではないとは分かっている。
けれど、昨夜一晩、目の下にクマを作るまで考えて、レインは一つの答えにたどり着いていた。
――今日のパーティーで答えを出そう。
そう誓いをたてるように胸のうちでつぶやいて、レインは深く息を吸い込んだ。
パーティーは、病院に隣接された医療学校のホールに準備されていた。
病院の関係者、患者の関係者だけでなく、学校の関係者までいるので、人の数は思いのほか多い。
パーティーの雰囲気もそれにあわせて、なかなか豪華だったので、会場についたレインは驚いてしまった。
意外にも豪華、と言ったら失礼かもしれないけど、やはり想像以上だ。
病院主催の小さなパーティというふうに聞いていたので、ホームパーティの延長線上のように考えていたのだが、なかなかどうして。
ホールはかなりの広さで、立食用のテーブルのほかに、中央にダンス用のフロアがあけてある。
どうやら、あれが今日のメインイベントのようだ。
飾りつけも豪華だ。
クリスマス・ツリーだけでも、大きなものが中央にひとつ、そして小さなもの(それでもレインの背丈くらい)が、会場に何個かと、入り口や廊下、テラスなど何箇所かに置かれてかなり華やかだ。
会場の様子に目を奪われていると、遠くから声がした。
「レイーーン!」
呼ばれて振り返ると、鮮やかな赤いドレスを着た少女が勢い良く駆けてきた。
「ファイン!!」
昨日の不安げな顔とはうって変わった明るい表情にこちらまで嬉しくなる。
病気ではないと言っただけでも、かなりファインを安心させることができたのだとホッとする。
「よく来たわね、ファイン。
ここの入り口分かりづらいけど、迷わなかった?」
「うん、途中でシェイドに会って連れてきてもらったから」
「あら、そうなの。
で、シェイドは?」
「なんか、知り合いがいたみたいでよばれていっちゃった」
「ふーん…、そうなの」
病院主催のパーティなのだから、知り合いはいっぱいいるだろう。
ましてや、王族で医学を志したシェイドは、珍しいこともあって、かなりの有名人だ。
パーティに来ている女性たちも、どうにかしてシェイドと一緒にダンスを踊りたいと思っているようだ。
レインは、数日前に聞いた仲良しの看護士さんの言葉を思い出していた。
『今年のパーティは、女の子たち大変よ〜。
なんたって、シェイドさまだけじゃなくってブライトさままで来るんだから』
その二人ともが自分の知り合いだなんて、そのときは何だかくすぐったいような気がしたけれど…・…。
突然、入り口のほうで、女の子の歓声があがった。
見れば、ブライトがちょうど到着したところだった。
レインと付き合い始めたとはいえ、人気はまだまだ衰えてはいないようだ。
その様子をじっと見ていたレインは、朝、病室でしたのと同じように息をひとつ吸い込んだ。
そして、その息をゆっくりと吐き出して言った。
「ファイン。
ブライトさまと踊ってきて」
「え?」
ファインが大きな目をますます大きくして聞き返す。
「なんで?
ブライトはレインと踊らなきゃ…」
その言葉にレインはゆっくりと首を横に振る。
「ううん、ファインと、踊らなきゃダメなの。
そうしなきゃ、病気は治らないの」
「で、でもレイン昨日は病気じゃないって…」
「どんなお医者さまの本にだってきっと載っていない病気なの」
「え?」
「ファインはね、ブライトさまのことが好きなの」
「………………へ?」
「ファイン、ブライトさまが私と付き合うようになって、急にブライトさまが離れてしまったような気がして寂しかったんじゃない?」
「……そう、かも」
「いつもそばにいてくれた人だから、きっとあまりに身近すぎて気づかなかったのよ。
自分が、その人のこと好きなんだって」
「で、で、でも、ブライトはレインと…!」
「うん、私…、ブライトさまとはお別れするわ」
そのとき、
「あ」
ファインのあげた短い声にレインが振りむくと、ようやく女の子の集団から解放されたブライトがズンズンと大またで歩み寄ってくるところだった。
距離的に今の会話が聞こえていたわけはないのだが、ブライトは彼にしては珍しく強引にレインの手をつかんだ。
「レイン、ちょっと話があるんだ」
レインはじっとブライトの目を見る。
「……はい」
戸惑ったままのファインを後に残して、二人は会場の外のテラスへと出る。
テラスには明るい月に照らされたクリスマス・ツリーが美しく輝いていた。
だが、そんなものに見とれることもせずにブライトは一枚の紙を示した。
それは今日の昼に、レインからブライトのもとに届けられたものだった。
「レイン、これは一体どういうことだい?」
少し苛立ったブライトにレインはあくまで静かな口調で答える。
「そこに書いてあるとおりです。
ファインは本当はブライトさまが好きで、私は本当にはブライトさまのこと好きじゃぁなかった。
だから、お別れしましょう?」
「突然、何を言い出すんだい、レイン?
それに…、ここに書いてあることを、そのまんま信じるわけにはいかないよ。
だって…、…だってファインはシェイドが好きなはずだ。
僕はそれを誰よりも知ってる」
「私も誰よりも知ってます。ブライトさまがファインのこと好きだって」
「レイン、僕は…!」
否定しようとするブライトの言葉をさえぎって、レインは穏やかに笑った。
「だからね、ブライトさま、お互い様なんです」
「え?」
「私もブライトさまのこと本当に愛してたわけじゃなかった。私はただ憧れてただけ。
ブライトさまの本当の姿をわかろうともしないで」
「レイン…」
――自分は、恋に恋していたに過ぎない。
昨夜、クリスマス・イヴの夜に一晩中考えてその答えに辿り着いて、レインは泣いた。
自分は何て馬鹿だったのだろうかと。
そして、ブライトに憧れていたときは、今に比べて何て幸せだったかと。
静かに、ただ静かに流れた涙は、病院の真っ白な枕にしみ込み、消えていった。
泣きはらした顔は、薄いメイクのしたに追いやった。
――今日は、決して泣かない。
そう決意したレインは、小さく手を握り締め、真っ直ぐにブライトを見つめた。
「ファインはブライトさまの本当の姿を分かってる。
だから、ブライトさまはファインの前ではあんなに自然に笑えるんです」
二人の間に、数秒の沈黙が生まれる。
やがて、ブライトの落ち着いた声がそれを破る。
「…レイン、僕はファインの代わりに君に告白したわけじゃないよ。
確かに僕はファインを好きだったし、もしかしたら今もまだ好きな気持ちがあるのかもしれない。
でも、僕はレインのことを本当にかけがえのない人だと思ってる。
…僕は、ファインがシェイドのことを好きなんだと気付いて、どうにか自分の気持ちをあきらめようとした。
だけどなかなか出来なくて、苦しくて…。
そんな時、いつでも君がいて、手をとって導いて、微笑んでくれた。
だから…、僕は君にずっとそばにいてほしいと、そう思った。
それは決して嘘なんかじゃない」
レインは、ずっと黙ったままブライトの言葉を聞いていた。
そして、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます。
そう言ってもらえた、それだけで十分です」
このままブライトの顔を見ていると、泣かないと決めたのに、涙がこみ上げてきそうで、レインは傍らに飾られたクリスマス・ツリーを見つめた。
クリスタルで作られた、たくさんのオーナメントが枝々を美しく彩っている。
ふと、クローバーをかたどったオーナメントに目が留まる。
それは幸福の象徴とされる四葉ではなく、三つ葉の形をしていた。
手にとって、ハートのような葉っぱの形を指でそっとなぞる。
「…ねえ、ブライトさま。
私たちお互いにとって、かけがえのない存在ではあるんだわ。
でも、その関係は……、」
言いよどんだレインに、静かにブライトが言葉を続ける。
「恋人同士、じゃあなかった」
その表情は、寂しげではありながら、決意を秘めた強さを持っていた。
今更ながら、その顔に見とれそうになって微苦笑する。
「ええ、きっと。
…少し、さみしいけど」
ブライトが、そっとレインを抱き締める。
静かな時が二人の上に横たわった。
レインが小さく息を吸う。
思い切ったはずなのに、この腕に甘えてしまいたくなる心を飲み込むように。
「ブライトさま、行ってあげて。
ファインが待ってる」
「……うん」
名残惜しそうに離れる腕に、愛しさが残る。
その想いを見ないようにして、互いに一歩二歩と小さく後退る。
「メリークリスマス、ブライトさま。
あなたの幸せを祈って」
優しく笑ってレインが言う。
「メリークリスマス、レイン。
君も幸せに」
ブライトが穏やかに笑う。
「はい。
ゆっくりと気長に『そのままの自分でいられる誰か』を見つけます」
少しだけ冗談めかして、そう言うレインに、ブライトは至極真面目な顔で答えた。
「…うん、見つかるよ。
たぶん、そんなに時間はかからずに」
「…そう、ですか?」
「うん、保証する」
そう言ってブライトはにっこりと笑った。
そして背中をくるりと向けて、肩ごしに言った。
「さよなら、レイン」
「…さようなら、ブライトさま」
ブライトの去ったあと、ただじっと立ちすくむレインを、聖夜の月が優しく照らしていた。
「ふぅ、いったいどこに行ったんだ?」
病棟はほとんど探したというのに、レインの姿は見当たらない。
シェイドは苛立たしげに髪をグシャグシャとかきまぜる。
レインとブライトが会場から抜け出して言ったのは遠目から見て知っている。
だが、しばらくして一人で戻ってきたブライトはファインの手をとってダンスを踊っている。
レインは一体いまどこで何を思っているのか。
それを考えると、いてもたってもいられなかった。
けれど求める青い髪の少女はどこにも見当たらない。
シェイドはため息をついて廊下の窓にもたれかかる。
今宵聖夜の月は丸く満ち、辺りを明るく照らしている。
まさか、こんな寒空の下、外にはいないだろう。
そう思いながら巡らした視線の先に、はたしてレインはいた。
――寒い夜には、星がきれいに見えるのだという。
それを証明するかのように、今日の星空はつきささるほどに美しかった。
レインは、病院の庭のベンチに腰をかけ、ぼんやりと星を見つめていた。
手には、さきほどツリーからはずしたクローバーのオーナメントが握られている。
ひゅうと、冷たい風が吹いて、レインの体を震え上がらせる。
そのとき…、
バサッ!
いきなりレインにコートが頭からかぶせられた。
「きゃっ!」
叫んで振りかえる。
と…、
「このバカ野郎!この真冬にそんな格好で何やってんだ!!」
それが誰かをみとめるよりもはやく、怒鳴り声が降ってきた。
「シェイド…」
それから数分後。
「ねぇ、シェイド?」
「何だ?」
「この格好、何だか照れくさいんですけど…」
「しょうがないだろ、こうする以外にないんだから」
レインは、シェイドに背中から抱きしめられるようにして一つのコートの中にいる。
普通だったら、かなり胸がときめくシチュエーションなのだが、この二人は先ほどから小さな口げんかを繰り広げていて、ロマンチックも何もないようだ。
第一、こういう状況になったのも口げんかの末のことなのだ。
こんな寒いところにいないで早く中に入れというシェイドに、まずレインがここにいたいのだと駄々をこね、放っておいてくれというレインに一人にして風邪でもひかれたら困るとシェイドが言い返した。
そして、二人ともが室内に戻ろうとしないくせに、コートは一つしかなく…。
結果、こうなったという訳だった。
しばらくそうして、取り留めのない口げんかをかわしてから、シェイドが唐突に謝った。
「ごめん、な」
レインはいきなりのことに驚く。
「どうしてシェイドが謝るの?」
シェイドは言いにくそうに髪をかき混ぜてから、ゆっくりと口を開く。
「それがさ、実はファイン、最初にオレのところに相談に来たんだ。
『ブライトと一緒にいると胸が苦しい』って。
ほら、ファイン、自分のこと病気じゃないかと思ってたろ?
研修医やってるオレなら何か分かるんじゃないかと思ったみたいだ」
「ファインらしい」
クスッと小さく笑う。
「で、シェイドは何て答えたの?」
「正直、めちゃめちゃ悩んだ。
素直に『お前はブライトのこと好きなんだよ』って言ったら、レインとブライトの仲を裂くことになりそうだし。
かといって、『それは気のせいだ、忘れろ』なんて言ったら、ファインの恋心をないがしろにするみたいで、さ」
「…うん」
「それで・・・・・・オレ、その気持ちを素直にレインに話してみろって、ファインに言っちまったんだ」
「え、えぇっ!?」
「それで、レインが悩んだり苦しんだりするだろうって分かってはいたけど、それ以外に解決する方法がないと思った。
レインが、決着をつける以外に…」
そのとき、レインはようやく、あの日のシェイドの言葉の意味が分かった。
『もしかしたら、お前のこと悲しませるかもしれない…、でも…、いつでも、お前の味方だから』
ふいに、シェイドがレインの手元に目を落として聞く。
「レイン、それ何持ってんだ?」
「え?
ああ、三つ葉のクローバーのオーナメント。
ツリーに飾ってあったの」
「勝手に取ってくるなよ、お前は」
「ねぇ、でも何で三つ葉なのかしら?」
「え?」
「せっかくのクリスマスなんだから、四葉のクローバーにすればいいのに。
そうすれば幸せのしるしだわ」
「なんか理由があるんじゃないのか?」
「でも…」
「ん?」
レインは、ゆっくりと葉のハートの形をなぞる。
「ハートが三つじゃ寂しいわ。
二つはペアになれても、あとの一つははぐれたまんまだもの」
「……」
シェイドも、じっと三つ葉のクローバーを見る。
一つのハートはファイン、そして二つ目はブライト。
そして、はぐれたままの三つ目のハートは…。
「もう一つ葉を足してやろう」
「え?」
唐突なシェイドの言葉にレインは思わず聞き返す。
「はぐれたハートのそばに、もう一つ、別のハートがいればいい。
そうしたら、寂しくないだろう?」
シェイドの手が、そっとオーナメントを持つレインの手に重なる。
その手は、しみいるほどに優しく暖かい。
「それに、そうすれば、ほら、四葉のクローバーになる。
四葉は幸せのしるし、なんだろ?」
シェイドの言葉が、胸の芯まで、ホッと暖かくする。
「うん…」
答えながら、レインの頬を今日は流すまいと思っていた涙が伝った。
シェイドの骨ばった指が、そっと涙をぬぐう。
「…もう、ブライトのことで泣くな」
レインは泣きながら、クスッと笑う。
「…バカ、違うよ…」
「…何が?」
――泣かせたのは、ブライトさまじゃなくて、あなたよ、シェイド。
その言葉を胸のうちで小さくつぶやいて、シェイドの胸に頭をもたせかける。
鼓動が、聞こえる。
その音に、不思議なほど安らいで、レインはそっと目をふせた。
「…ありがとう、シェイド」
パーティ会場から、かすかに昨日誰かが口ずさんでいたのと同じ、クリスマス・キャロルが聞こえる。
聖夜は、二人の上に静かに過ぎ去ろうとしていた。